パラオ旅行編②♡
アン料理教室 MIYUKIです。
愛知県 名古屋 で 少人数制 個人 お料理教室 主宰しています。
こんにちは!
今日の記事は、パラオ②。
先日書いたように、平和を祈る島、
ペリリユー島についてお話したいと思います。パラオ①
今回のパラオ旅行で私が一番心を打たれた場所。
ペリリュー島とは、
パラオの中心地コロール島から高速船で1時間ほどの場所にあります。
距離で言うと50 km ほど離れた、13㎢の小さな島です。
高速船から見るペリリュー島。
平坦な緑豊かな島です。
近づくと、緑いっぱいの綺麗な島です。
しかしこの姿とは裏腹に、
この島は第二次世界対戦の激戦地となった場所です。
第二次世界大戦と言うと、
すごく昔のような気がしますが、
たった70年前は、ここは戦地で焼け野原になっていたそうです。
戦地というと、一般的には硫黄島などが有名で、
このペリリユー島は「忘れられた戦地」と言われるほどです。
しかし、2015年に高齢の天皇皇后両陛下が 慰霊に行かれたことからもわかるように、
激しい戦いがあり
たくさんの方が命を落とされた場所です。
また、このペリリユー島は、世界でも珍しく、
戦跡がそのままの状態で残されてる島なのです。
そのままというのは、例えば原爆ドームなどですと、
ガラスケースに入って戦跡を展示してありますが、
ペリリュー島の場合は、誰かが片付けたということもなく、
70年前に終戦を終えたそのままの場所、
状態で戦跡が残され置かれています。
なので、展示されているというより、
そのまま放置されてる状態の戦跡を見る事が出来ます。
(ただ実際は放置されているわけではなく、
戦争が風化しないため、次世代に戦争の悲惨さを伝えるために、
ペリリューの皆さんが、草を刈ったりと、
そのままの状態に管理してくれているのです)。
そのままですので、
時間が経過しているとは言え、
戦争中の状態が少なからず想像でき、戦争の怖さや辛さ、
残虐さなどがひしひしと伝わってきます。
ペリリユー島の戦いは、
玉砕を禁じられた初めての戦で、
持久戦で戦うよう命令されたそうです。
その為、死にたくても死ねない、、、
どれほど辛く厳しい戦いだったかと。。。残虐で悲劇です。
いくつか案内して見せて頂いたものを
アップしていきたいと思います。
千人洞窟
千人が入れる程の洞窟から、千人洞窟といわれ、
アメリカ軍上陸前に、
日本兵が自分の手で
固い石灰石を砕いて、アリの巣のように堀った洞窟です。
この島は、珊瑚や石灰岩で出来ている為、
中に空洞があり、その空洞を利用して、
このような洞窟をつくったそうです。
解りやすく書くと、もぐらの巣のようになっています。
しかし、戦いが始まれば、
入り口は敵陣がいるので、
外に出る事は出来ず、
ずっと中にこもり、戦ったそうです。
そんな場所です。物資の支給も食べ物の補充もなく、
暑い中、洞窟の中に閉じ込められ過ごす戦だったそうです。
何より一番困ったのは、水。
洞窟の中では水がなく、
鍾乳洞のように、滴る水滴を奪い合うように「舐めた」そうです。
中にも入らせて頂きました。
中は暗いので、懐中電灯で照らしながら。
瓶がみえますでしょうか?
キリンの空き瓶。
丸く見えるのは、日本海軍の食器です。
空き瓶を見ると、
お酒でも飲んでいたようにも見えますが、
この空き瓶も、武器として使用したそうです。
四角く見える指先の品は、すずりです。
小さいですが、これで手紙を書いていたそうです。
こちらは、ガイドさんの説明によると、武器の空き箱だそうです。
もちろん玉などはありません。
物資の乏しさがわかる一枚です。
こちらは、洞窟内で唯一、下水溝?のようなものがあります。
そして、ここだけ広い洞窟になっていました。
ここの洞窟は、負傷者を介護していた場所だそうです。
写真には収めませんでしたが、
こちらには、ご遺族の方からでしょうか、
慰霊の札が置かれていました。
こちらは、トーチカ。穴が見えますね。
日本の戦車。
触れはしないものの、
至近距離で見る事が出来ます。
見てみると、
すごく薄い鉄板で出来ていているので、
攻撃されれば、
すぐにダメになるのが良く分かります。
実際、いくつも穴が空いていました。
大きさが分かるように、
私も一緒にして、撮影してもらいました。
思った以上に小さいですよね。。。
こんな小さい訳ですから、
座れる座席も小さい。
そして、鉄の塊。
むちゃくちゃ暑い戦車内だったと想像出来ます。
そしてそして、
アメリカ軍の戦車。
こちらも、私も一緒に写ってみました。
一目瞭然、力の違いが分かります。
この戦車の写真でもわかるように、
この戦いは、物資、武器の力が全く違ったことが大きいとのこと。
写真ではわかりませんが、
戦車の壁の厚みも全然違いました。
こちらは、日本軍の大砲。
洞窟に設置されており、中からも拝見できました。
綺麗に残っているのは、場所の違い。
この大砲がある場所は、
アメリカ兵が上陸した場所の反対方向になるため、
攻撃にあわず、この状態で残っているそうです。
こちらの柱(棒)も、戦跡。
上部が内側に曲がっていることから、
ネズミ返しのような効果があり、
人が逃げ出さないように建てられたものの柱だそうです。
という事は、
日本人捕虜がいた場所。
こちらは、みたまの慰霊碑。
青い洋服を着られてる方は、今回担当して頂いたガイドの雅人さん。
この方は、元々警察官で自衛官。
戦争の歴史を少しでも多くの人に伝えるために、
使命感を持ち
このペリリユーに来られたそうで、
この、みたまの慰霊碑に到着したら、
観光客一人一人にお線香を渡して下さりました。
(後で他のガイドさんにお聞きしたら、個人の実費でされてるそうです)
私は当然、
お線香などは持ち合わせていなかったので、
雅人さんのおかげで、
お焼香させて頂く事が出来てありがたかったです。
この慰霊碑の前には
ペリリユー島の戦いを指揮した、
中川州男中将の言葉が刻まれてました
『人は憎しみでもっては戦えない
愛のために戦うのである』
深い言葉ですね。
日本を守るために必死に戦った兵士の方の気持ちが良くわかる言葉です。
自分の生き方を考えさせられます。
続いて、こちらは、
日本とアメリカが戦う原因になったもの。
何かわかりますか?
滑走路です。
ということは、飛行場がここペリリューにあった。
アメリカは、フィリピンに攻め込むため、
近くにあるペリリュー島の、
この飛行場がほしい為に、中心地のコロールではなく、
ペリリューに上陸したと。
ここだけは、
今も木が生えていなくて、
時間が止まったようで、
何か、ぐっと来るものがありました。
つづいて
こちらの建物は、海軍の司令塔。
海軍というのは、階級的に一番上だそうで、
その一番上の海軍の建物ということで、
とても立派につくられています。
よく見ると、四角い枠が、少しまあるく作られています。
二階に上がる階段をみても、
おしゃれで、余分な装飾もありました。
これらは贅沢な作りで、海軍らしさが現れていると。
また、この建物は、戦争前に作られたものなので、
時間もあったから、立派に贅沢に作られた建物だそうです。
しかし、そんな立派な建物も、
滑走路が監視できる貴重な建物だったために、
アメリカが上陸する前に、いち早く
爆弾を投下され、天井には、大きな穴が開いていました。
(ちなみに、窓がないのは、もともとだそうです。
南国の暑い場所では、
窓は作らず、風が通り抜けるようにつくるのだそうです。)
そして、この場所、
私が見た時は、天井の穴はすっかり丸ごとほとんど空いていましたが、
少し前の写真をみると、穴の間に鉄筋が多く残っていました。
数年づつ、このような戦跡も劣化し、変化しているんだなと。
私達は危険な為、
この建物の2階には登れませんでしたが、
数年前に行かれた方は、2階にも上がれたようなので、
どんどん見れる場所も減ってくるように感じました。
建物の中
日本の建物だという事がよくわかりますね。トイレや手洗い場。
最後の写真は、お風呂だそうです。
お風呂があるという事は、上層部が利用していたことが分かります。
そして、この建物に併設してあるこちらの部屋。
二十扉になっていて、とてもとても頑丈作られています。
機密文書を保管していた場所だそうで、
壁の厚みは、20㎝?ぐらいあるほど、頑丈でした。
この横に、アメリカが占領してから、
アメリカが作ったものが併設されています。
こちらは、簡単に運ぶことが出来て、
簡単に組み立てられることから、
よく使われる建物だそうです。
頑丈な日本人が作った建物の横に、
簡易的にアメリカ人が作った建物が隣同士になって残っています。
続きまして
こちらは、ゼロ戦。
写真じゃわからない程の状態です。
こちらは、飛行機の足が出てることから、
保管してある状態、もしくは、停止しているものだったそうです。
(もし、飛行中に墜落したものなら、
足は真っ先に折れてしまいなくなる為)
そして、天皇皇后両陛下もいらした、
ペリリユー平和記念公園。
この石碑の前で、天皇皇后両陛下が手を合わせられました。
そして、ペリリユー同様、
激戦地になった隣の島、
アンガウル島にむけても、手をあわせられたそうです。
奥に見える島が、アンガウル島
そして、この公園の傍にビーチがあります。
とっても綺麗ですが、
オレンジビーチと言って、アメリカが上陸した場所です。
オレンジの由来は、
海が血の色で染まり、
オレンジ色に見えた事から
オレンジビーチ言われるとの話もあるようですが、
本当は、アメリカが使っていた軍事コードネームだそうです。
しかし、血の色にそまったとの話が出るぐらいの場所だということですね。
今は本当に穏やかで、緑あふれる綺麗な場所でした。
こちらは、日本軍が最後に戦った、大山。
慰霊碑ではなく、顕彰碑が建てられていました。
大きな山がない島ですが、
それでもここだけが、少しだけ山になっています。
高い場所というのは、
戦地では有利になる場所だそうで、
その為、こちらを拠点にしていたそうです。
しかし、最後の地らしく、
激戦だった証拠として、
未だに不発弾が多く残されていました。
赤と白の杭がいたるところにあります。
白と白の間は、不発弾処理がされてる。
赤より先は、処理がされておらず、
危険を伴う可能性があるため、
通らないようにとの印だそうです。
この大山にある洞窟は、
更に入り口が狭くて、
人が入れるのか?という程、小さいです。
ここに、どろ~とした粘着性のある火を、
消火器のような状態で、投下されたそうです。
その為、
洞窟の入り口には、
黒く色が変色しているところが多くありました。
鎮魂の碑
ここの近くで、
ペリリュー守備隊長の中川大佐が自決された場所があるため、
こちらに鎮魂の碑が建てられたそうです。
自決された場所は、今は危険で行けないので、
この場所に、鎮魂の碑がありました。
サクラサクラ、この言葉を送り、
国旗、秘密文章などを焼き、亡くなったそうです。
そして、日本部隊としての抵抗は終わった。
しかし、
日本軍の一部は、
戦争が終わった事を知らずにいた人も多く
終戦から二年、隠れながら戦っていた人達がいたそうです。
その人達は、合計34名。
三十四会(みとしかい)と当て字で名前がつけられ、
(※水戸の方が多かったとの意味もあるそうです)
慰霊碑などにもお名前がありました。
今では、皆さま高齢になり、ほどんどの方が亡くなられています。
その中で、
ペリリュー島の戦いを語り、
戦争を風化させないように活動され、天皇陛下とも会談されたことのある、
土田さんとおっしゃる方が、
私達がペリリューで観光した日の、
2日前に亡くなられたとお聞きしました。
ガイドの雅人さんが一番お話されていたのは、
このような戦争が風化されることが一番怖いと。
戦争経験者は、
皆様高齢になり、
土田さんのようにお亡くなりになられます。
私達が出来る事は、
このような戦争の悲惨さを忘れず、
風化させないように、
学び、考えていかなかればならないんだなと思いました。
また、私は、ペリリューに行くまでは、
戦争は残虐で怖いもの、だからだめで、
平和を守ろうとだけ、と理解していました。
でも、今ある日本の平和は、
洗脳的な考えもあるけれども、
10代、20代若さで、
遠く離れたこのようなへき地で、
親、妻、子供、家族と別れ、
戦った人達がいるおかげなんだと、感じました。
中川兵士の言葉通り、
憎しみではなく、祖国日本を守るために「愛」を持って戦った。
私達が、今こうして
好きな事をして、
幸せに過ごせていることは、このような兵士のおかげであり、
その事に感謝し、
自分のこれからの生き方についても、
考えるべきところがあるように思いました。
戦跡の劣化も激しいですし、
見れる場所もどんどん減ってきていますが、
もし、パラオに行く機会がありましたら
ぜひ、ペリリューに足を運んでみて下さい。
最後に、戦跡とは別にもペリリューには、
素晴らしいとことがいっぱいありました!
こちらは、天皇がご休憩された場所でもありますが、
海が綺麗に見える公園?のような場所。
見渡す全面が海で綺麗でした。
ペリリューに咲く、東洋桜。綺麗でした~!
次は、パラオ最後のレポ。
パラオの「食」について書きたいと思います~!
行って良かったレストラン、
パラオ料理を紹介しますね!!!
体験レッスンも受付中!